福岡地方裁判所小倉支部 昭和55年(ワ)237号 判決 1983年3月29日
原告
園田正義
原告
園田陽子
右両名訴訟代理人
住田定夫
被告
植木敏之
右訴訟代理人
小柳正之
主文
一 被告は原告園田正義に対し、金三三三万二、七五九円と、これに対する昭和五五年三月一九日から支払ずみまで、年五分の割合による金員を支払え。
二 原告園田正義のその余の請求及び原告園田陽子の請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用は、原告園田正義と被告との間に生じた分は、これを四分し、その一を被告、その余を同原告の負担、原告園田陽子と被告との間に生じた分は、同原告の負担とする。
四 この判決は、第一項にかぎり、仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告園田正義(以下「原告正義」という。)に対し、金一、二〇三万二、七五九円、原告園田陽子(以下「原告陽子」という)。に対し、金五五〇万円、とこれらに対するいずれも昭和五五年三月一九日から支払ずみまで、年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 1項につき仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
3 仮執行免脱宣言
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
(一) 原告正義は運輸省第四港湾建設局小倉港工事事務所に勤務していた元国家公務員であり、原告陽子は同人の妻である。
(二) 被告は、肩書住所地で植木外科医院(以下「被告医院」という。)を開設し、医療業務にたずさわつている開業医である。
2 診療契約の成立
原告正義は、昭和四〇年四月ころ、右下腹部に痛みとしこりをおぼえ、被告医院において診察を受けたところ急性虫垂炎の診断を受け直ちに入院手術を受けるよう指示され、即日被告との間において、虫垂摘出手術及び手術前後の適切かつ完全な診療を内容とする診療契約(以下「本件診療契約」という。)を締結した。
3 原告正義の疾病と治療経過等
(一) 被告は原告正義の右下腹部痛は、急性虫垂炎が原因であると診断し、同日午後二時ころ、同原告の虫垂摘出手術(以下、「本件手術」という。)を行なつた。
(二) 同原告は、本件手術後、被告医院において体力回復のための経過観察等のため約二週間を過した後、被告の許可を得て被告医院を退院した。
(三) 同原告は、退院後二、三日を自宅で休養した後、勤務に復帰したが、その後しばらくして歩行中に腹痛をおぼえた外、便秘、食欲減退等の諸症状に悩まされたが、右下腹部にしこりが残存する感じは、本件手術前と変らず、半年ないし一年後には現実に右下腹部にしこりを確認することができた。
そこで同原告は、数ケ所の病院において診察を受けたが、本件手術痕が存在したこともあつて、結局虫垂に起因するものではないと診断され、原因不明のまま、病院を転々とし、有効な治療を受けることなく通院を繰返す日々を送ることになつた。
こうして、同原告は、同一職場の同僚に比し胃炎、下痢、腹痛等を理由とする病欠が異常に多く、昭和四〇年から昭和五四年までの一四年間に、それらの腹部疾患に起因する病欠は実に六一九日(一年平均四四日)を数えるに至つた。
そして同原告は、上司及び同僚から、右病欠について再三の注意を受け、勤務成績不良と判断されて昇進昇給が遅れ、管内で噂をされるまでになり、遂には退職を真剣に思いつめるところまで追いつめられるに至つた。
(四) 同原告は、昭和五四年一月三〇日、食欲の極端な減退と下腹部の激痛におそわれ、北九州中央病院(当時の名称は北九州白銀病院、以下「訴外病院」という。)に急遽搬入されたが、レントゲン写真検査及び開腹手術の結果、同原告の腹部にはなお虫垂が残存し、それが長年にわたつて化膿し、虫垂粘液嚢腫及び腹膜偽粘液腫等を併発していることが判明した。
そこで、同原告は摘出手術を受けたが、右手術は四時間近くに及ぶ大手術となり、一時は生命の危険も大きく、発見が遅れた場合確実に死に至る状態であつた。
同原告は、訴外病院に同年五月二〇日まで入院を余儀なくされ、虫垂が化膿して腸に癒着していたため、腸の一部を切り取り、腹部には数一〇センチメートルに及ぶ醜い手術痕が残つた。
4 被告の不完全履行(債務不履行に基づく損害賠償請求につき)ないし過失(不法行為に基づく損害賠償請求につき)
被告は、次の(一)(二)の不完全履行ないし過失により、原告正義の前記疾病、病欠及び訴外病院における前記大手術を惹起した。
(一) 被告は、同原告の虫垂摘出手術を行なうに当り、虫垂全部を完全に摘出する義務ないし虫垂粘液嚢腫あるいはその前兆であるしこりを切除する義務があるのにこれを怠つた。
(二) 被告は、虫垂或は右しこりを完全に摘出できなかつたときは本件手術後虫垂炎の悪化又は再発、虫垂粘液嚢腫、腹膜偽粘液腫を併発する虞れが大であるから、原告らにその旨を説明するなり、完全に摘出するため施設の完備した総合病院へ紹介するなり等の注意義務があるのにこれを怠つた。
5 原告らの損害
(一) 原告正義の損害 金一、二〇三万二、七五九円
(1) 収入減による損害 金一〇三万二、七五九円
同原告の給与面での減収による損害は、これまでの昇給の遅れ、今後の退職金への影響等を考えれば、極めて甚大であるが、資料が確実に収集できた昭和四八年以降昭和五四年までの分のみでも合計金一〇三万二、七五九円に及ぶ。
(2) 慰藉料
前記一四年間に及ぶ同原告の精神的苦痛は金銭にかえがたいが、金銭で慰藉するとすれば金一、〇〇〇万円を下回るものではない。
(3) 弁護士費用 金一〇〇万円
(二) 原告陽子の損害 金五五〇万円
(1) 慰藉料 金五〇〇万円
同原告は、夫である原告正義と一四年間苦労を共にし、一時は死を覚悟するまでの大手術を原告正義が受けたこと、今後も腸を切り取つたことによる肉体的不安がつきまとうこと等による精神的苦痛は、原告正義の死亡に比肩するものであり、右精神的苦痛に対する慰藉料は金五〇〇万円を下回るものではない。
(2) 弁護士費用 金五〇万円
6 よつて、選択的に、右債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償請求として、被告に対し、原告正義は金一、二〇三万二、七五九円、原告陽子は金五五〇万円と、これらに対する本件訴訟状送達の翌日である昭和五五年三月一九日から支払ずみまで、民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否等
1 請求原因1項の事実は認める。
2 同2、3項の事実は不知。
3 同4、5項は争う。
4 虫垂切除手術の際、炎症部分が残存していたとすれば、通常は直ちに腹膜炎となつて進行するものであるから、手術後長期間にわたり腹膜炎等の発病が認められない本件においては、手術後一〇数年を経て生じた虫垂粘液嚢腫及び腹膜偽粘液腫と本件手術時の虫垂炎症との間に、因果関係を認めることはできない。そして、虫垂粘液嚢腫(粘液瘤の訳語もあるが同義)は虫垂の蓄膿が長く持続し、膿汁内の細菌も死滅し、内容が粘液漿液性になつた状態であるが(粘液瘤が破壊すると腹膜偽粘液腫が発生するといわれるが、虫垂粘液瘤からの発症例は少ない。)、本件の場合これが仮に虫垂の炎症と関係があるとしても、それは残存した虫垂に、その後相当期間を経て新たに生じたであろう炎症と関係があるにすぎず、被告手術時の虫垂炎とは何ら関連がない。このことは、訴外病院の昭和五三年五月の原告正義に対する診察において、虫垂様のものに特に異常が認められず、粘膜の状態からいつて正常に近いものであつたことや、腫瘤の存在が確認されていないこと等から明らかである。
三 抗弁
1 帰責事由不存在
虫垂切除手術は開腹手術の中で最も数の多い簡単な手術の一つに属するが、同時にまたはその一方では病相が複雑多岐であるために極めて困難な手術となる場合があるのであつて、虫垂全部の完全摘出が原則であるが、癒着の部位程度等病態如何によつては虫垂の全部又は一部を摘出できない場合が生ずる。その場合虫垂の炎症部分が切除されて残存部分に炎症がないか、あるいは充分の炎症防止処置がとられていれば、適正な虫垂切除手術の施行に欠けるところはないというべきである。しかして本件の場合、術後間もなく再手術が行なわれた形跡がないことからみると、右の適正な処置がとられたことが明らかに推認できるのであるから、仮に虫垂の全部又は一部が残存したとしても手術そのものに不完全履行ないし過失はないというべきである。
2 消滅時効
(一) 被告は原告正義に対する虫垂切除手術は、昭和四〇年四月に行なわれたものであるところ、本訴提起は昭和五五年三月一二日であるから、不法行為であるとすれば三年以上、債務不履行とすれば一〇年以上経過し、いずれも消滅時効が完成している。
(二) 被告は原告に対し、昭和五七年一一月九日本件第一五回口頭弁論において消滅時効を援用する旨の意思表示をした。
四 抗弁に対する認否等
1 抗弁1項は争う。
2 同2項(一)は争う。原告らが本件損害及び加害者を知つたのは、昭和五四年三月二七日以降であるから消滅時効は完成していない。
3 同2項(二)は認める。
五 再抗弁
権利の濫用
被告が、債務不履行の責任について、一〇年の消滅時効を援用することは、診療契約の特殊性及び本件事業の性質からして、権利の濫用というべきである。
六 再抗弁に対する認否
争う。
第三 証拠<省略>
理由
一請求原因1項の事実は当事者間に争いがない。
原告ら各本人尋問の結果によれば、原告正義は、昭和二四年四月運輸省に就職し、主に浚泄船上で機械の操作とか船の操舵作業に従事し、昭和五六年七月一日運輸省第四港湾建設局小倉港工事事務所を退職したことが認められる。
二<証拠>によれば、請求原因2項の事実を認めることができ<る。>
三原告正義の疾病と治療経過について
前示一、二の事実及び<証拠>を総合すると次の事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。
1 被告は、昭和二六年に医師となり、北九州市内の病院等の勤務医を経て、昭和三六年から被告医院を開業して主に内臓外科を専門としているものであるところ、原告正義は、昭和三七、八年ころから下腹部に痛みを覚えていたが、昭和三九年ころにはこれに加えてしこりが出来て作業中に痛むため、昭和四〇年四月ころ被告医院に赴いて被告の診察を受けたところ、急性虫垂炎と診断されて、直ちに手術を受けるよう指示されたので、原告は右指示に従いそのまま入院し、虫垂摘出手術を受けることとなつた。
2 本件手術は、同日午後二時ころから、被告の執刀により行なわれたが、腰椎麻酔が切れるほどの長時間に亘る手術となり、その間被告は「手がつけられん」「ひどいねえ」などと言つたり、看護婦を通じて他の医師の応援を要請したりしたが、結局応援のないまま、約三時間を要して終了した。
3 同原告は、その後一八日間、同医院に入院した後退院したが、手術後から退院までの間、退院に際し一週間後来院するよう指示された他は、手術と治療に関し、摘出した虫垂をみせられたことがないばかりか、格別の注意指示ないし説明を受けることもなかつた。
4 同原告は、退院一、二週間後、被告医院で術後の診察を受け、その際被告に対し依然変らぬ腹部の不調を訴えたが、被告はこれを肯ぜず何の処置もとらなかつた。
5 同原告は、退院後も腹痛、膨満感をおぼえるなどし、半年から一年後には再び腹部にしこりを触知して体調はすぐれず、加えて船上における震動を伴なう仕事に耐えられないことから、昭和五四年までの一四年間に胃炎、下痢、腹痛感により六一九日(年平均四四日)にも及ぶ病欠勤を繰返した。この間原告は、北九州市内のエンゼル内科、武井内科、中間胃腸病院、訴外病院でその都度受診したが、本件手術痕の存在から虫垂の炎症を疑われることは勿論無く、臓器の癒着ではないかとの診断を受けて抗生物質の投与を受ける等薬を離せない状態が続いたが、根本的な治療にならず、昭和五三年、訴外病院内科の診察を受けた際、再手術を勧められたこともあつたが、経済的理由等で再手術まで踏み切ることができず、一進一退の状態を繰返した。
6 同原告は、昭和五四年一月三〇日、食欲の不振、右下腹部の痛み、しこりの増大のため、訴外病院岡崎健吉医師(以下「岡崎医師」という。)の診察を受け入院したところ、岡崎医師は、同原告の右症状、同原告が昭和五三年五月九日訴外病院内科で受診した際のレントゲン写真(甲第五七号証の一ないし一一)及び当時のカルテの記載内容から、同原告の体内にいまだ虫垂が残存していることを見てとり、虫垂炎性膿瘍及び盲腸腫瘍を疑い、翌日には腎及び尿管のレントゲン写真撮影、更に二月一日、七日の両日には胴体のCT検査(コンピューターにより人体の断面図をレントゲンで表わすもの。)を実施した結果、先に加えて盲腸癌の疑も生じたため、二月一三日に至り回盲部切除術及び右半結腸切除術を行つたが、同原告の右下腹部の化膿が非常に強くなり、当日の手術においては、根治手術ではない膿瘍を切開して排膿する手術に止めた。しかして、その手術の結果、一応これを回盲部膿瘍及び盲腸癌と診断し、その後検査及び経過観察をした上、三月二七日再手術を行つて回腸大腸切除をし腫瘤を取除いたが、その際虫垂の存在は判然としなかつたものの右摘除腫瘤塊に含まれているものと考えられたので、虫垂粘液嚢腫及び腹膜偽粘液腫と診断し、念のため右腫瘤塊を九州大学医学部病理学教室に送つて、癌の疑いの有無についての検査を依頼した。
7 九州大学病理学教室では、右腫瘤の組織検査の結果、これを虫垂粘液嚢腫と判定した。
8 同原告の症状はその後軽快に向い、昭和五四年五月二〇日訴外病院を退院した。
9 同原告は、訴外病院の手術後は、手術前より体調が良くなり病欠は少くなつたが、依然重労働には耐えられず軽作業に従事するようになつた。
10 同原告は、昭和五六年七月一日、船の振動に耐えられず、退職に踏み切つた。
四虫垂摘出手術等について
<証拠>によれば、次のことを認めるに十分である。
1 虫垂摘出手術の実務においては、炎症が虫垂全部に及んでいるときはもちろん一部にとどまるときにも虫垂全部を摘出するのが、一般的であるが、例えば、開腹後周囲臓器、組織との癒着が著しいため通常の腰椎麻酔の効果時間(約一時間)内に虫垂全部の摘出が困難と認められ、且つ当該手術環境の人的物的設備が全身麻酔に切替えて手術を完遂できる程充分に整備されていない場合或は患者の全身状態が虫垂全部の摘出完了に耐えない程悪い場合等にあつては、当面炎症を起こしている虫垂の一部を摘出するに止めることも止むを得ない措置として行なわれており、このような場合、手術を担当した医師としては、予後に備えさせるため、患者又はその家族に対し、手術の経過と内容を説明するのが通例であり、特に万一炎症部分を残置せざるを得なかつたときは腹膜炎等を併発する危険性が極めて高いのであるから、速やかに自ら又は他の医療機関による再手術を積極的に説明且つ指導する必要がある。
2 虫垂粘液嚢腫は、虫垂の蓄膿が長期間持続して、膿汁内の細菌が死滅し、その内容が粘液漿液性になつた状態をいい、合併症としては、粘液嚢腫が破壊することによつて発症する腹膜偽粘液腫があるが、虫垂全部が完全に摘除されている場合にはいずれの発症もありえない。
3 腹膜偽粘液腫は、卵巣嚢腫や虫垂粘液嚢腫が破裂して分泌機能を有する上皮細胞が腹腔中に播種されて、粘液分泌を営むことによつて発症し、腹腔内の種々の範囲に粘液嚢腫様の膠質物質が貯溜している状態をいう。
五被告の責任について
(一) 原告らは被告において本件診療契約の締結により負担した原告正義の虫垂全部を完全に摘出する債務を怠つたと主張するのに対し、被告は仮定的に帰責事由の不存在を主張し、患者の病態如何によつては一部の切除をもつて債務の履行に欠けるところはない旨抗争するので検討する。
虫垂摘出手術を担当する医師は、契約上原則として虫垂全部を摘出すべき注意義務を負担するものであるが、例えば開腹後周囲臓器、組織との癒着が著しいため通常の腰椎麻酔の効果時間(約一時間)内に虫垂全部の摘出が困難であり且つ当該手術環境の人的物的設備が全身麻酔に切替えて手術を完遂できる程充分に整備されていない場合或は患者の全身状態が虫垂全部の摘出完了に耐えない程悪い場合等虫垂全部の摘出を困難ならしめる特段の事情がある場合には例外的に虫垂の一部、例えば炎症部分のみを切除摘出することにより契約上の義務は履行されたものと解すべきである。しかして右例外の場合においては、手術を担当した医師としては、予後を充分に備えさせるため、患者又はその家族に対し、当該手術の経過と内容を良く説明すべき具体的義務を新たに負担するに至るが、更に患者の病態に従い虫垂の炎症部分を残置せざるを得なかつた場合においては腹膜炎等を併発するおそれが極めて高いのであるから、速やかに自ら又は他の医療期間による再手術の必要を説明し且つ指導すべき具体的義務を負担するものと解すべきである。
これを本件についてみるに、前認定の事実によれば、本件手術により、被告が原告正義の虫垂をその一部か全部かは証拠上必ずしも明らかではないが、少なくとも完全に摘出していなかつたことは明らかであり、本件手術が三時間にも及んだことや応援医師を要請したことをも考え併せると、開腹時の原告正義の症状はすでに虫垂全部の完全な摘出には困難な状況にあつたものかあるいは虫垂の発見が困難な状況にあつて、これが摘出をしなかつたものと推認することができる上、その後の病状の経過、特に本件手術直後からの腹痛、胃炎、下痢症状等の継続は虫垂の災症部分の残置を窺知せしめるに充分であるところ、被告は本件手術後同原告又はその家族に対し手術の経過と内容についてはもとより再手術の必要性についてなんらの説明ないし指導を与えた形跡がないのであるから、被告が同原告に対し本件診療契約上の債務を不履行し、右債務不履行につき少なくとも虫垂手術を担当した医師として患者に対する説明義務等を怠つた帰責事由を有することは疑う余地がない。
この点の原告らの主張は結局理由があり被告の抗弁は失当である。
(二) しかして、前三認定の同原告の疾病と治療経過及び前四認定の虫垂粘液嚢腫、腹膜偽粘液腫罹患の一般的な病態と症状等を総合勘案すれば、本件手術後約一四年間に及ぶ同原告の腹痛、化膿等の身体不調とそれによる休業は被告の右債務不履行に基因するものと認めるが相当である。
被告は、仮になんらかの債務不履行があるとしても、本件手術後の原告正義の疾病とは相当因果関係がない旨強調するが、本件手術後における同原告の身体不調が一四年間の長きに亘つたことは残存炎症虫垂が虫垂粘液嚢腫等にまで進行発展する過程が緩慢であつたことや本件手術痕の存在が訴外医師の判断を誤らしめたことや場当りの抗生物質投与による対処療法が効を奏したことの結果にすぎないものであつて、単に身体不調が長期に亘つたことの故をもつて被告の債務不履行との相当因果関係を否定したり、これが被告の債務不履行と無関係な新たな炎症に基づく疾病であるとすることは相当でない。
他に右認定を覆して被告の主張を認めるべき証拠は全く存在しないから、被告は原告正義が被つた損害を賠償する責任を負担するといわなければならない。
六消滅時効について
被告は、本件診療契約において不完全履行による債務不履行があつたとしても、右債務不履行に基づく損害賠償請求権は、被告が虫垂摘出手術をした昭和四〇年四月から一〇年を経過した日をもつて時効により消滅した旨主張する。
一般に消滅時効は「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」から進行するが、右の「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」とは債権を行使するについて厳密に法律上の障害がなくなつた時を指称するものではなく、権利者の職業、地位、教育及び権利の性質、内容等諸般の事情からその権利行使を現実に期待ないし要求できる時、換言すれば「権利を行使できることを知るべかりし時期」を意味するものと解するが相当である。けだし、権利者の地位、権利の性質等諸般の状況に照し権利行使を期待等することが事実上不可能な場合にまで時効の進行を容認することは、権利者に対し正当な権利行使を制限することとなつて過酷であり、引いては時効制度の本旨にもとる不当な結果を招来するに至るからである。
これを本件についてみると、確かに、被告の診療契約上の債務不履行(不完全履行)により、原告正義が被告に対し追完(再手術)の請求ないし損害賠償の請求をなすべき法律上の障害は消滅したということができるけれども、同時に、前三認定の同原告の手術、疾病及び治療の経過に徴すれば、同原告は患者として被告の債務不履行の後においても、早くとも昭和五四年一月三〇日医学的に虫垂の残存が確認された時(本件の場合不法行為による損害賠償請求権における損害及び加害者を知つた時に一致する)までは、その不完全な所以を覚知できる立場になかつたものと認めるが相当であるし、従つてまた右同日までは損害賠償請求権の現実の行使を期待することが事実上殆ど不可能であつたと認められるから、その間消滅時効は進行するに由なきものというべきである。
しかして、本訴債務不履行に基づく損害賠償請求権の消滅時効は右の昭和五四年一月三一日を起算日として進行を開始したと認むべきところ、本訴提起が昭和五五年三月一二日であることは記録上明らかであるから、未だ消滅時効は完成していないものといわなければならず、この点の被告の主張は所詮採用の限りでない。
七損害について
1 原告正義の損害
(一) 収入減による損害
前記認定事実並びに<証拠>を総合すれば、被告の本件手術後、原告正義は病欠勤が多くなりそのことによつて昇給延伸等給与が減じ、その減収額は合計金一〇三万二、七五九円を下回るものでないことが認められ、右認定に反する証拠はない。
(二) 慰藉料
本件にあらわれた諸般の事情を考慮すると、原告正義が前記疾病により被つた精神的損害を慰藉するためには金二〇〇万円が相当である。
(三) 弁護士費用
弁論の全趣旨によれば、原告正義は本件訴訟の提起とその追行を弁護士である原告訴訟代理人に委任したことが認められ、本件事案の内容、認定額等諸般の事情に鑑み、本件損害として同原告が被告に賠償を求めうべき弁護士費用相当額は、金三〇万円をもつて相当とする。
2 原告陽子の損害
(一) 慰藉料
傷害被害者の近親者の慰藉料請求は、被害者の死亡の場合にも比すべき、又はこれに比し著しく劣らない程度の精神上の苦痛を受けたと認められるときに限り認められるものと解すべきところ、前記認定の原告正義疾病等は未だ死亡に比肩等すべき精神的苦痛を受ける場合に該当するものということはできないから、原告陽子の慰藉料請求は失当である。
(二) したがつて、同原告の弁護士費用の請求も理由がない。
八以上によれば、原告らの本訴請求は、債務不履行による損害賠償として、原告正義につき金三三三万二、七五九円と、これに対する本件訴状送達の翌日であることが記録上明らかな昭和五五年三月一九日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるかれこれを認容し、同原告のその余の請求及び原告陽子の請求はいずれも失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用するが、仮執行免脱の宣言は相当でないので、これを付さず、主文のとおり判決する。
(鍋山健 渡邉安一 渡邉了造)